救い人だからと言って、神様が無条件全部くれるのではなくて、人間がやらなければならないことがあります。
イエス様は死にながらも、死んでもやりました。それがメシヤとしてすべきことだったからです。どんな患難、迫害、困難があっても、メシヤとしてすべきことをその通りにしました。
他の人が代わりに、「イエス様、私が代わりに死にます」と言って死んだとしても、救い主じゃないから受け取られません。万人が知らなくてメシヤを不信して裏切っても、代わりに死ぬことによって彼らを生かすのです。
どれくらい愛したからそういうことをしたでしょうか?全地球上の人たちが知らないでやっていること、憎んで悪評を言って殺す、それを代わりに背負うということ、代わりに死んであげるということ。一体どういうことがあってそういうことをしたんでしょうか?
不信したら、そのままにしておいたら一体どういうことになるから、だったでしょうか?
それを許すことで、死んであげることで、神様の御心を広げることができたということです。
心をよくしておいて、心を善良にしておいたときに、その時に初めて神様が働きかけます。
神様が愛する人を選ぶときも、新婦を選ぶときも心を見て選びます。
ヨブが患難に遭っても、「何で私は義なる生き方をしたのにこんな患難に見舞われますか?」と言わなかったのです。「私が罪人だから、私が悪いからです」と言いました。
ただ義なるふりをしてはいけません。いつもそのような生き方をしていくのです。そのようにして、いい心の畑になります。
ヨブが耐え忍んで、神様の言葉で打ち勝って、笑顔で打ち勝ってきました。サタンたち、悪い奴らの前で基準を立てたから、神様は喜びました。
神様は誰でも愛してくださるけれども、アーメンと信じてついて行くこと。それが神様を片思いさせないことです。神様はいつも私たち人間を愛してくださいます。しかし、いつかは人間の方から愛さなければなりません。愛さなければ歴史が起こりません。
2016年の御言葉より